烏有に帰す

中古美術蒐集家&小料理研究家の雑事記

寺島紫明の額を買う

山平義正の軸と時系列が前後するのだけれども、寺島紫明の額を手に入れた。日本画の取り扱いなら五指に落ちない京都の画廊からの購入で、その割に非常にお安かった。良い買い物だったと思う。

 

安いのには理由がある。寺島紫明は美人画の大家だけれども、その実美人画家ではない。と個人的に思っている。強いて言えば女性肖像画家とでも言おうか、一般的な美的感覚だと不美人画も多く描いている。これは彼の画業を少し詳しく知ると分かるのだけれど、彼は女性の表面的な美しさよりも内面的な美しさを描こうとしたからだと思っている。容姿の一般的な市井の女性の日常の一瞬を切り取ったような作品を多く残してる。

 

その為か往時から同門の伊東深水などより人気の面で劣り、市場評価は低かったが近年更にその傾向が強まったような気がする。弟子の山平義正が連れ安するのも致し方ないだろう。私は紫明の方が深水より芸術的価値は高いと思うのでこの傾向は有難い。舞妓でなければ極端に安い紫明が出ることもある。今回のケースがそうで供シールも無く余白に薄シミが数点認めれるコンディションだった。構図も背景が無く、着物も道中着を羽織ったバストアップと簡潔なもので、描かれたのは1950-60年代だろう。8号程度の紫明としては破格だった。

 

私が所謂美人画を買う場合の条件はそのモチーフの女性の事を知りたいと思うかどうか、これがほぼ全てと言って良い。どれだけ表面的に美しくとも舞妓に興味が無いのはその条件から外れることが多いからである。

 

その上舞妓は専門のコレクターも多くオークションは言うに及ばず、画廊の売値も割高に設定されている場合が多い。需給バランスが他の美人画より売り手有利なので、舞妓に特段興味が無ければ専門コレクターとの競合は避けるべきだ。

 

舞妓は飾る場所にも苦慮する。女性の肖像画というだけで玄関に飾るのは憚られるのに玄人となると猶更で、例え良く描けたものでもセンスを疑ってしまう。見せびらかすものではないのだ。

山平義正の軸を買う

先日山平義正の軸を手に入れた。バジット上限の半値ほどで良い買い物だったと思う。

 

山平義正は未だ描き続けているのか定かではないが、存命中の所謂美人画で有名な日本画家である。昭和に活躍した大家寺島紫明の一番弟子でその所定鑑定人と言った方が通りが良いかもしれない。

 

山平義正の市場評価が低いのは画風が師寺島紫明に酷似し過ぎていて、オリジナリティが皆無だという点に尽きると思う。畢竟師のコピー作家でしかないということだ。

 

尤も、寺島紫明が好きで且つ相場的に手が出ないという好事家にとってはこれほど有難い存在はない。村上華岳は無理でも石川晴彦ならなんとかなるという場合と同様、斯く言う私もその一人であって紫明の5-10分の1程度の価格で手に入るので良い物は今後も買いたいと思う。

 

 

世にSNSの数多蔓延る中で、敢えて今ブログを付けてみようと思う。少し丁寧に文章を書いてみたいという欲求が絶えず有って、帳面に日記を付けても良いのだけれど、なるべく続け易い方が良いだろうと思いブログを付けることにする。

 

かれこれ幾つ目のブログになるだろう。結局のところ私にとってSNSとは、匿名性の中で金銭的価値のない情報をのんびりと一人語りに語るものを間欠的に他人に読んでもらうこと(或いは読まれるかもしれないという前提で文章化すること)が目的であって、だとするとブログが一番適した媒体なのだと思う。

 

ブログは「書く」ではなく「付ける」と言った方が個人的にしっくりくる。なんだがとても親密な感じがするからだ。月並みだけれど、細く長く続けていきたい。