烏有に帰す

中古美術蒐集家&小料理研究家の雑事記

贋作考その二

リトグラフシルクスクリーンなど原画の複製としての版画をこき下ろしている一方で、肉筆による贋作、即ち模写自体には寛容でありたいと思っている。過去多くの巨匠の名画がその後の巨匠たちによって模写されてきた。問題なのは作者をサインや落款で偽り高額で売りつけるその欺罔行為であって作品それ自体に罪はないと思っている。故に肉筆による贋作を贋作と知って、又は贋作ではないかと恐れつつ贋作相当の値段で買って楽しむのはありだと思う。少なくとも肉筆で描いてる限り、それはこの世に二つとない贋作品であって摺り師が摺る刷り物とはわけが違う。こう言っては摺り師に失礼かもしれないが、刷りものならキャノンのカラコピーで十分なのだ。

 

私も恥ずかしながら真贋疑わしいものを幾つか持っているけれど、どれも贋作を意識しつつ応分の価格で購入したし、モチーフが好みであったり贋作であっても尚鑑賞に値するものだと思っている。そこには画家の息遣いを感じることができる。それが例え贋作師のものであったとしてもだ。

 

一番やっかいなのが所謂工芸画と言われる刷り物と肉筆のハイブリッド品で、要は刷った物の上に部分的に手作業で筆を入れて彩色するものだ。これをネット上の写真で見破るのは骨が折れる。弊コレクションにもこれが疑われるものがある。

 

そこで重要になるのが作品に付属するアクセサリーで、日本画の軸なら箱、額ならシールやその他その作品の来歴を示す百貨店や画廊の発行のシールや領収書などがこれに当たる。先日山元春挙の横物の軸が見たことのない低価格で売りに出ていたので即買いした。箱が良かったからだ。春挙の高弟松本一洋の極め箱で箱書きが良かった。作品自体も良くも悪くも春挙らしさが出ている。輪郭線を描かないもので以前春挙の似たような色合いの糸瓜の横物を見たことがる。表具の裂も良く軸先は象牙だった。

 

一点だけ難点は軸先の片方が取れて到着したことだ。折れたのではなく取れていた。以前の所有者の誰かが軸先をボンドで簡易に接着していたものが経年劣化と売主の梱包の杜撰さで外れてしまったのだ。売主は軸の取り扱いは素人のリサイクル屋なので致し方ないのだが、古美術や古道具屋でも案外軸先を壊す梱包は多い。軸先の首が最も脆いのだが、そこに緩衝材を詰めてない梱包が多い。少しでも隙間があると例え供箱で外装を梱包しても箱内部で動くので輸送中の衝撃が直接軸先の根本に伝わって折れるのである。

 

不審なのは軸棒の先の断面が真っ平だったことだ。通常軸先は軸棒を雄、軸先を雌として凸凹に加工して差し込み接着する。それが以前の所有者の誰かが折ってしまって何故か真っ平に加工したようである。象牙以外の樹脂やプラスチックなど安い軸先の場合軸棒の凸は象牙のそれより太くなるので、軸先を初心表装後に変換したとも思えない。どの道表具から外さなければ出来ない加工なので表具屋にしか出来ない仕事であり、表具屋に頼んでコストを掛けるなら軸先をボンド付けなどしないだろう。

 

軸先の追加修繕費用はかかるものの、それを加えても相場の半額以下なので良い買い物だった。以前から一年で数日でも掛けてみたいものが安く売りに出れば春挙は一幅欲しいと思っいた。人気は凋落してしまった感があるけれど、腐っても春挙。明治大帝崩御の床の設えは春挙だったのである。

贋作考

少し前の話だけれども現代日本画の有名作家のリトグラフの贋作が大量に出回っていて問題になっているそうな。大阪の画商が版画の工房に作らせて百貨店へ安く卸したもので、売った百貨店は気の毒な話である。

 

しかし、そもそもリトグラフなどの版画に贋作という概念が成立するだろうか。摺っているのは当該作家のリトグラフを過去に制作したことのある摺師なのである。例えるなら過去にライセンス生産を請け負った工場が勝手に同モデルの工業製品を製造販売しているようなもので著作権や契約上の権利侵害はあってもそれが美術品として「贋」となるとは思えないのである。せいぜい作家の直筆サインが無いというだけで、小説作家の直筆サイン入り限定単行本小説とサインなしの単行本との違いであろう。単行本自体は全く同一品と考えて良いと思う。正規品ではない並行輸入品やアウトレット品と同列なのではないだろうか。

 

思うにリトグラフ木版画などこの世に数十から数百枚同様物が存在するものに美術品としての価値があるのだろうか。いやしくも美術品と言うからにはこの世に二つとないものであるべきだと思う。しかもそれが本来の版画作品ではなく原画の複製なら猶更で、あのようなものに数十万円、ものによれば数百万円も払う人の気が知れない。あれは率直に言って美術品ではなく聖遺物だと思う。狂信的な信者が教祖の聖遺物に大枚を叩く構図と変りないのだ。某家流茶道のお弟子さんが有難がって真っ黒なお茶碗に何十万、何百万円払うのと同じだと思う。

「珍品堂主人」読了

井伏鱒二を読むのは「へんろう宿」以来であろうか。読むのが遅い私でも二日で読み切ってしまった。ストーリーのテンポが良くて明朗だからであろう。

 

珍品堂が魯山人ベースの創作かと思って読み進めていたのだが実際は秦秀雄という数寄者がモデルで、蘭々女が魯山人のようである。舞台の料亭は星岡茶寮で間違いないようだ。

 

秦秀雄という人物は中々の曲者だったようで追悼座談会への出席依頼は白洲正子以外皆断ったそうだ。しかし、古美術品の蒐集哲学に付いては我が意を得たる部分も多い。正本に興味が無く、堀り出しを生き甲斐とする所など同感の至りである。

 

井伏鱒二の文章はやや淡泊過ぎるけれど、登場人物が皆活き活きとしていて引き込まれる。地元の文豪だけにまた未読のもので気になっているものを図書館で借りようと思う。

シンワアートがオープンになっていた

これがwith coronaの効能なのかどうか定かではないけれど、多分そうなのであろう。昨年の何時からかは分からないけれど、美術品オークションハウスの国内最大手シンワアートがウェッブでオークションを一般公開するようになった。以前は会員以外にはクローズドだったと記憶している。これは地方在住者にとっては有難い。益々首都圏に在住する意義は個人的に希薄になっている。

 

以前からシンワアートのオークション内容には興味があったのだけど、現在公開されている内容を見る限り毎日より少し程度が良いくらいで目玉品以外は大差はないようである。日本画に限って言えば京都のオークションハウスと画廊の方が上かなというのが率直な感想であるが選択肢が増えるのは単純に有難い。私のような小コレクターの場合、中堅作家や没落作家の良品や優品を数多く扱って欲しいというのがファーストプライオリティだけど、油絵で生涯この一枚と決めている作家のものと出会いがあれば利用してみたい。

画集とヴィンテージワイン

先日某フリマサイトで画集とヴィンテージワインを同一出品者から買って到着を待っている。このサイトの楽しい所は対面のフリーマーケットさながら出品者と交渉して手早く売買が成り立つことだ。他のオークションサイトにはないスピード感と融通性がある。大方の出品が送料込み価格なのも良い。送料を購入者負担とすると出品者は配送事故を嫌って過剰梱包しがちである。嵩張って送料が増えても出品者の腹は痛まないからそうなるのであって、これを出品者負担とすればコストとリスクを正当に評価して概ね合理的な梱包となると思う。

 

最初は画集だけ興味を引かれたのだけど、値段交渉の末値引きは微少に止まり、ならば抱き合わせで他に何か買って送料分と少しお勉強してもらおうと古いワインを買うことにした。素人の出品者が常温保存していたカベルネの赤ワインなのだけど84年のヴィンテージで楽しみだ。

 

画集は畠中光享の展覧会の図録でこれも楽しみである。畠中光享は数少ない才能ある日本画の存命作家だと思う。彼の肖像画仏画は勿論風俗画も観たいと思わせる何かがあると思うからだ。

 

ある色紙絵に興味を惹かれて調べていくうちに畠中光享のことを知った。三彩の壺と薔薇一輪の静物画なのだけど、落款は「光」とある。その色紙絵が誰の作かはさて置き、畠中光享という画家を知る切っ掛けになったのは間違いないし、ヴィンテージワインとも御縁が出来た。このような連鎖のある買い物は良い買い物になることが多い。

 

何より画集とヴィンテージワインというパッケージを待っているこの時間がたまらなく良い。通販の配達を待つ時間を楽しめる買い物も他にそうそうないはずだ。例えるなら一晩早く出発して船室や列車の寝台の夜を楽しむ旅のようなものである。誰か素敵な人に贈り物をするならこの組み合わせにしてみたい。

 

 

掘り出し物は無し

私のような小コレクターでも定期にカタログを郵送して貰える画廊が二軒ある。どちらも日本画の取り扱いでは五指に落ちない京都の老舗で、三月は双方から同時期にカタログを送って来るのが早春の楽しみの一つとなっている。

 

本年三月はどちらも触手が動くものは無かった。バジットオーバーと言うより端的に良いと思うものが無かったのである。昨年暮れは危うく散財するところだっただけに、残念なようなホッとしたような複雑な気分だ。これは何がしかのコレクターであれば誰でも分かってくれる心地だろう。

 

軸はある程度まとまった数まで収集してしまったので、今後は余程安くて良品という場合か、出色の出来というような作以外は自重しようと思う。飾らない絵を買うくらいなら日々の食卓に使える焼き物を買った方が良い。今後重点を置くべきは日本画の額で塗り込めのカラフルなものが良い。以前はこの手の日本画に全く興味が湧かず、余白の美至上主義者だったが額装となるとカラフルな岩絵の具の塗り込めが油彩ほどけばけばしくなく京壁の日本家屋によく合うという結論に至ったからである。昭和の近代日本画壇の作家たちもこぞって厚塗りの日本画に舵を切ったのにはそれなりに理由があると思う次第だ。

 

 

色紙絵の勧め

昨年の暮れに毎年ノーベル文学賞候補に名前の挙がる小説家のラジオ番組で5%という話を聴いた。文学にせよ音楽にせよ深く鑑賞しようとする層は人口の凡そ5%程度なのだそうだ。

 

絵画についてはどうであろう。絵画鑑賞は小説や音楽ほど一般に馴染のあるものではないし、鑑賞する側により高度な鑑賞力が要求されると思う。美術館に年一度でも自腹を切って足を運ぶ層が5%程度なのではないだろうか。そして実際に身銭を切って絵を買う層は美術館の来館者の内5ー10%程度ではないかと思う。これが当たらずとも遠からずだとすると絵を買う人間は500人に1人、そしてその内反復継続して絵を収集する人間はその内10%、つまり5000人に1人くらいなのではないだろうか。 

 

このように、絵画収集をライフワークとする人口は極端に少ない。と思われる。その理由は幾つかあるが最大の障害はコストだろう。しかし、何も美術館級の名画や有名作家のものを画廊や百貨店で買うことだけが絵画収集ではない。日本画の色紙絵なら有名作家のものでも高くて数万、数千円で手に入る場合もある。気に入ったものの中から無理のない価格のものを少しづつ収集して、少し良い色紙用の額に季節に合わせて入れ替えていけば、立派な絵画収集と言えると思う。特に都市部の集合住宅に在住で、床の間が無かったり軸を掛けるスペースが無い人などでも色紙絵なら玄関の下駄箱の上や壁面で十分だ。そこに日本画の品良い小品が掛けてあったらどんなに素敵なことだろうと思う。

 

コロナ禍が関連しているのかどうか分からないけれど、最近色紙絵の良い物の投げが出なくなった。そして以前なら捨て置かれそうなものでも安いものはオークションで入札が入っている。一部そういう肩の力の抜けた絵画の楽しみ方に目覚めた層がいるのかもしれない。